| 夕月神社 |
| 所在:久喜宮古賀 |
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| 本社は古賀の産土神にして、昔は奥の方夕月という藪の中に鎮座ましましたが、余りにも村に遠く産徒の参詣にも不便であると、元文2年(1738)浦山と言われる現在地に遷座された。 勧請の初めその他は一切不明である。境内並びに参道には桜が植えられている。 |
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| 夕月城跡 | 夕月神社奥の院 2000年公園内 |
| 林田総天神 |
| 森の元 |
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| 総天神は林田の産土神として、貞享5年に埴女命(田の神)を奉祀し、神家六人が年番で祭座を司る。 田の神を祀る天神杜及び田神杜は、語呂の通じる所からいつのまにか、菅公を祀る天満宮すなわち天満天神に間違えられてしまった所が多く、御神体までも菅公像にとって変わったケースが多い。 本杜は文化2年4月に石祠が再建され、同11年に石の烏居が建てられ、また文政5年に稲荷杜が合祀された。 ここの境内には昔からの楠の大木が三本あったが、嘉永4年6月この楠に落雷して、杜屋も炎上したので、残った楠を払い下げその代金を以て、従来草葺き屋根だった社屋を瓦屋根にして再建した。 次いで明治39年9月24日一間四面の神殿、5間半に二間の拝殿、ご神体二座、矢大臣二座を悉く焼失、その後はただ石祠と鳥居だけが残されてあったが昭和55年8月、田辺氏をはじめ神家、地区民らの努力によって拝殿が再建された。 |
| 宮地嶽神社 |
| 所在:松末真竹 |
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| 慶応4年(1868)が明治元年と変わる、この年、真竹、小向内の人たちによって宮地嶽三神が勧請された。 社地は真竹山の上にあり、290の石段を上りつめたところに、二間四面の神殿と二間に三間の拝殿がある。 神殿には三個の石祠が安置されてあり、中央は宮地嶽三神ど息長足姫、右は勝村大明神、左は勝頼大明神である。 息長足姫とは神功皇后のことであり、勝村、勝頼はその家来であるという。近くに真竹山城跡あり、秋月種実の臣野手讃岐の居城であったと云われている。空堀の跡あり。 |
| 高木神社 |
| 所在::松末赤谷 |
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| 高木神社はは赤谷の産神にして、もと高尾山にあつたのをここに移したのだというが、その遷座の年月等は一切不明である。 このお社も彦山鎮護の神といわれ、氏子の内に神祭を司る神家16人あり、斎戒して口に榊の枝を含み神キを供える神事がある。 4月15目には百弓祭の神事、10月9目は大嘗祭、12月15日は大祭が行われる。 境内には神木として楠、樫の大木があり。神殿は二間四面、拝殿は二間に三間、元禄4年拝殿建立のときの棟札が残っている。 |
| 白木神社 |
| 所在:白木字宮之浦 |
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| 本杜は高木神社ともいい、白木の産神として祀られたもので、彦山守護48大行事杜の一つである。 縁起によれば弘仁10年(819)嵯蛾天皇の勅によって、彦山に七里四方の神領を賜わったとき、筑前、豊後、筑後に渉る領域境48の要所に大行事杜を勧請して、その庄園を鎮護したという。 二間に三間の神殿あり。また村内に神家と称する者六人あり、毎年輸番にて宮座を執り行う。 |
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| 志波祇園社 |