| 志波祇園社 |
| 所在:志波上町 |
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| この社は慶長14年(1609)に志波の領主であった栗山備後利安によって創建されている。 境内に秋葉神社、天満宮、恵比須杜が祀られてある。 境内に周囲ニメートル余の楠、榛等数本あり。 |
| 久喜宮祇園社 |
| 所在:久喜宮古町 |
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| 須賀神社すなわち砥園さまについては、次のようないい伝えがある。 昔、北海の武塔神が南海人の娘と結婚しようと、八万里の道を歩き疲れて弱った身体を、巨旦将来の所で休めようと宿を乞うた。 ところがこの巨旦将来は、100も倉庫を持つような大金持でありながら、武塔神のたのみを断ってしまった。そこで武塔神は巨旦将来の兄に当たる蘇民将来の所に訪れて行くと、蘇民将来は貧しい暮らしをしているにも拘らず、粟がらで編んだ座蒲団に招じ、粟の粥を出してもてな したが武塔神は大層よろこんで、南海人の所に行き無事に結婚、8人の子女をもうけ、北海に帰る途中巨旦将来の家を襲って一家を全滅させ、疫病をもってその一族を皆殺しにしてしまった。 しかし蘇民将来の一族にだけは、腰に茅の輸をつけさせ、門口には「蘇民将来子孫」の六字を書いてはっておけば、決して疫病神が入っては来ないと教えた。 以上は「備後風土記」に書いてある物語であるが、また、これは印度の午頭天王の話でもある。 午頭天王は84,650の部下を持ち、之を全国的に散在せしめておき、これに疫病を伝染させるという。 この午頭天王すなわち武塔神に八ツ切にされた巨旦将来の亡魂が金神となり、万物を枯らし殺すことを司るというので、金神七殺ともいい、もしこの神を犯せば一家七人が殺されるといい、もしその家に五人しかいなければ、隣家の二人がまきぞえになるといわれている。 この八将神が五日目毎に居所を変えて我らの周囲を運行し、その遊行を犯した者に罰を与える、というのが金神迷信である。 話変わって天平7年、右大臣吉備真備が18年間の支那留学を終わって無事祖国に帰って来た。その船が播磨の港(神戸港)に着く頃真備は、飾磨郡の広峯の風景を見て、乙こに素盞鳴命が降臨したことにし、それにインドの午頭天王の話を一緒にして宣伝したらよかろうと考え、この広峯午頭天王社を祀った。 それから136年後の貞観11年に円如法師が、皇室及び京の都民を疫病から守るためといって、山城国八坂の郷にこの午頭天王社を勧請したがそれからは、天皇も公卿も町人も、当時大流行の疫病から逃れようと国を挙げて御霊会の大祭を行ったので、庶民たちはこれを信じなければ疫病にかかるものと信じきってしまい、その結果として各地各所に八坂神社の分杜ができた。 そのころ、摂政藤原基経がこの八坂神社の地域内に、己が邸宅を移し祇園精舎といったのが原因で砥園さまというようになった。これは印度の舎衛国の太子祓陀が、その所有する樹木をお釈迦さまに寄進したので、お釈迦さまはその地を好まれ毎度ここで説法されたので、その樹林を砥園といったが、そこに薬を司る鎮守の神として祀られてあったのが午頭天王である。 その後で須達長者という者が、お釈迦さまの説教を続けられた場所に己が邸宅を移して砥園精舎と名付けたということである。 摂政藤原基経がこれを真似たものであろう。こうして紙園さまは至る所に祀られ信ぜられるようになったが、今でも京都八坂の砥園杜のお祭りには「蘇民将来子孫」と書いたお符と、茅の輪のお守りが配られているという。 吉備真傭が18年間の留学から帰り、その舶来の知識でもって素盞鳴尊と午頭天皇を一つにしたり、八将神や金神の崇りを説いたりしたために、人々は八将神や金神の崇りを恐れ、その方位を狙さぬよう必死で気を配らねばならなかった。 それが金神さま迷信として未だに人びとを恐れさせている。昔はよく疫病が流行したが、そんなとき巨旦将来の話を思い出して人びとは狂ったように頑園まつりをした。 今各地で行われる夏祭り、その多くは砥園まっりでありちょうど疫病流行の時季、茅の輪をくぐりぬけ疫病から逃れんとする祈りは各地に行われている。 久喜宮砥園社の山笠は元禄8年(1695)に始められ、その後氏子部落が輸番でこれをしきっている。 |
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| 原 鶴 |