筑後川名称

筑後川については古来種々の名称で呼ばれ親しまれてきた。筑後川の他千年川又は千歳川、大川、一夜川、取替川、神代川(くなしろ川)などがあり、筑前、筑後の間を流れているので両筑川、境川、筑間川ともよぱれた。さらに坂東太郎(利根川)や吉野三郎(吉野川)とともに筑紫次郎とも呼ばれる、目本の三大河川の一つでもある。
 なおこの川は流れる場所によっても名称が変わる。日田では三隅川と呼ばれ支流の玖珠町あたりでは玖珠川と言っている。肥後杖立では杖立川であり大山までくると、大山川と呼ぱれ、日田に来ると三隈川になる。上座郡では上座川と呼び黒田藩では上座川目付と言う役職もある。


 簗所熟談
 筑前黒田領と筑後有馬領の境界線は筑後川であることは言うまでもない。然し杷木周辺では常に農民の争いが絶えなかった。
 その一つは漁業権の問題である。川の中央が境界とわかっていても漁業の場合それだけを守れない理由もある。特に秋口、落ち鮎をとる場合川をせき止めて簗をかける。筑後側ではこれを簗瀬と言う。筑前では竹や木で川に簀子を立て、網を打つて鮎を取る。そのため筑前では網渡と呼んでいた。こうしたことで常にいざこざが絶えない。

五庄屋が完成した大石堰 大石堰(上流)

五庄屋を祀る


 さらに寛文4年、五庄屋による大石堰の完成以来、それまでもそうであったが、筑後川の水勢が筑前岸に強く当たるようになった。このため田畠の流失や筑前側の崖崩れ等ができている。そこで、筑前では大石井堰完成より72年後の元文元年から水請(刎)を作り始めて文化六年(1809)迄の13年間に16か所を造っている。
 それまでにもこぜり合が絶えなかつた、筑前と筑後の農民4,000人以上が宝暦元年(1736)6月15日から同17日にかけて筑後川をへだて、対峠して流血の大乱闘を行ったと、筑後側の記録に記されている。
鮎簗漁の間題に端を発して、大石井堰の取りこわしにまで発展したことが原因のようである。
宝暦元年は特に雨が少なく干魃の年であったことも相方の農民をいらだたせたようであり、例年続いた小ぜり合いもその原因の一つであろう。
 さらに井堰の関係で上流がダム化して簗場が沈んでしまったこともあってかなり上流の簗場を利用するようになったことも、筑前側不満の種であった。筑後側にすれば、数千町歩の美田に水が来るか、こぬかの瀬戸ぎわであれば決死の農民の気持も当然なことと言える。この筑後側の記録によると日田代官所が仲に入って十一月に和解成立となり「水内は(全水面)は筑後領と固く申付ける」と裁定を下したと書いているが、これはあやまりで後年の聞き書きと思われる。こんな一方的裁決が通るとは思われぬ。これも筑後側の記録であるが、簗所熟談には、この筑前、筑後の争いを日田豆田町年寄三松寛右工門、同中村太次右工門の調停で円満解決している。これは翌宝暦2年(1752)のことでこれが簗所熟談と言われるものである。右簗所熟談の覚書きの中に三松寛右工門は久留米藩御出入の御用達で、中村太次右工門は黒田藩御出入の御用商人であると記されている。両藩御出入りの両名の立場で両国農民の争いが都合よく納得され、解決されたものであると思われる。

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「水刎について」