水刎について
 水刎は元来、水請「みずうけ」と呼ばれていたもので、大字池田と林田までの間に合計17個の水刎が作られている。いつのころからか筑後川の流路が変わって、筑前特に杷木の池田、林田の筑前側川岸に水勢が激しくあたるようになったようである。そのため田畑や崖等が洪水のたびに甚大な被害を受けるようになった。現在も瀬の上の川岸を通ってみると竹藪になった川岸が水につかって、崩壊の一歩手前にあることが知られる
 終戦直後まで、寒水浜川にあった水刎と県道の間には10アール以上の水田が耕作されていたが、28年の水害によって、浜川の水刎が破壊してしまうとともに水田も跡形もなくなり県道の直下を筑後川の流水が滔々と音を立てて流れている。わずか50〜60年の人生の中でもこの変化が見聞できる。まして数百年、否数千年の歴史の中での変化は誠に想像にあまる物があることであろう。
 水刎はこの筑後川の水が筑前に強く当たるのを、ハネ返す祖先の考えぬいた知恵であった。五庄屋の大石堰が完成したのは昭和55年から数えて316年前の寛文4年である。このあたりからも流れの変化があったのであろうか林田頼母川打出しの下に水刎が作られたのは72年後の元文元年(1736)で現在から244年前のことである。
 以来178年前に作られた、享和2年(1802)構築の戌年水刎まで662年の間に実に17か所の水請が作られている。
 ひとくちに水刎と言っても大小さまざまあるが、ものすごい巨石や大小の石を大量に運搬しなければならない。記録によると狸穴(上池田)西の迫(下池田)林田山等から挽き出したとあるが、この人夫の賃銭等はほとんど無報酬に近いものであろう。公役(クヤク)として引っ張り出されたと思われるか、当時としては、大変な工事であったことであろう

         現在の水刎               筑後川右岸に連なる水刎
  
昭和橋下流の水刎 

大石堰 導入口と五庄屋遺跡(土手向こう)


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「筑後川の水運について」