筑後川の水運について
 陸上交通の不便な時代に水運は最も手近かな交通機関である。大河沿岸の住民やこの川を利用できる範囲の人たちは舟による水上交通や運搬に頼つていたのではあるまいか。歴史的にはかなり古い時代から利用されていたようである。
 隣町朝倉町には約2200年前斉明天皇の橘の広庭宮が設けられて、ここから朝鮮における百済救援軍の指揮がとられている。どの道を使用して百済救援軍との連絡をとられたか?もちろん大宰府や那の津等の前線基地があつたことも事実であろう。しかし目前にあるこの大河が何
の役にも立たなかったとは考えられない。
 杷木の方からバスに乗って菱野のバス停を過ぎるとすぐ左手に数軒の人家がある。これが小辺田(ヲベタ)と言うところである。昔はこのあたりに大河が流れていたとみえて今も小辺田の近くに沼があり、半ば深田になっていると朝倉紀聞の著者古賀高重は書いている。
 小辺田は昔織面(をめ)の湊のあったところという。おめた(織面田)がなまつて現在の小辺田になったものと思われると著者は285年前にのべている。さらにこの附近に唐船木と言って昔唐船(中国の舟)をつないだ木として楠の大木があったが、枯れてしまったので明暦2年(1656)取り捨てたと言う。千数百年の昔筑後川の水量も豊冨で、有明海を通った舟がこのあたりまで登ってきたことも充分考えられる。
 江戸時代の文政元年(1818)には漢学者で詩人の頼山陽が日田から舟に乗って筑後川を下り、菊地武光の古戦場を過ぎて、長詩を作りこれを弔った有名な詩がある。

筑後川の流れにまかせて下る筏 運 搬 船

 舟筏も筏ではなく舟と思われる。このころ久留米や長崎に行くには舟が唯一の乗物で早くて便利であったと思われる。乗り合い舟のような旅客専門の輸送機関ではなく積み荷の間に便乗するものである。
 明治30年ごろ杷木町から伊勢参宮をした記録があるが、これも杷木から12名川舟で久留米まで行き久留米より汽車に乗ったと書いている。
 旧藩時代天領(幕府直轄地)であった日田はその年貢米を関の御蔵所に集めこれを舟で長崎へ送っていたことが前述した簗所熟談の調定書の中に記されている。
さらに江戸時代から明治、大正にかけて、日田の木材を筏に組んで、木工の町現在の大川市、榎津や久留米等に運んでいるさらに大正時代には製材したものを船で運搬している。
 筏は日田から杷木まで一枚でくる。一枚とは長さ八間、横幅一間半に組んだもので材120片くらいと言われ現在の四トソトラック四、五台分あったと当時筏に乗っていた人が話している。
この木材を杷木から二枚-三枚につなぎなをして下る。途中幾か所かの休憩所があり、ここで食事や睡眠をとる。
久留米の下から有明海の潮の干満があり引き潮に乗って筏を下したという。
 米を集めていた関の蔵所は明治二十二年の洪水で無くなつてしまつた。舟の積荷は木炭や薪等を積んで、久留米、城島、大川等に下り大正年代になると製材した板等を久留米から大牟田や長須まで運んでいる。
 舟一隻の積み荷は3000斤〜5000斤くらいと言うから約2トソから3トソぐらいであろう。現在の3トソトラツク一台分である。
 帰途は15尺の布二つ折り?の帆二枚あげて筑後川の追い風に乗つて帰ってくる。昔の道路で荷車で運ぶとすれば、この水運がいかにこの地方産業の発達に貢献したかはかり知れぬものがある。

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