筑 後 川



 杷木町の歴史は筑後川をぬきにしては考えられない。杷木町の歴史は筑後川と共にある。瞬時も停滞することなく悠久の流れを続ける筑後川は、熊本県阿蘇郡小国町の外輪山北壁に源を発し、杖立川、大山川となり、日田盆地に出て玖珠川と合流し、日田の渓谷を過ぎ、杷木町から洋々たる筑紫平野を貫流して260余の支流を合わせついに、有明海にそそぐ延長実に138キロ、年間総流量は40億トソから50億トソと言われる九州第一の大河である。
 数千年の昔、人が住みついて以来杷木町はこの流れと共に暮らしてきた。漁撈に舟運交通に、さらには水田灌滅に、現在は観光事業などにも大きな役割を果たしている。なお筑後川は電源開発にも一役買って現在19の発電所が設置され、総出力91,000キロワットの電力を各地
.に送っている。この平和な流れもひとたび濁流うずまく洪水になると、様相は全く一変する。営々として築きあげた、土地も、建物も、工場も、施設も一瞬のうちにのみ込まれ破壌されて跡かたもなくなる。尊い人命もどれだけ失われたか図り知ることができない。しかもこの洪水は10年に一度くらいの割で訪れている。筑後川の歴史は洪水の歴史でもある。
 最近では28災と呼ばれる、昭和28年の洪水が最も甚大な被害を残している。300年以上どんな洪水にも耐えてきた五庄屋の大石堰も根底から破壌されてしまい、杷木町の祖先が300年来護岸のために築いて来た20か所余りの水刎もその大半が流失してしまった。
 川は人類の生命でもあると同時に、これを破壌する凶暴な面も合わせもっている。現代は河川工学が発達し営々として護岸工事が実施されているのでかなりの範囲河川の氾濫をくい止めている。
 数千年も昔は水量も今と全く比較にならぬほど豊富であったことであろう。上流にはうっそうとして原始林が繁茂、豊かな水量が平時に流れているが一朝洪水に見舞われると、この世とは思われぬ濁流がうずまいて流れたと思われる。それとともに河川の流路が変化して、いままでの川に全く水が流れなくなり、いままで平野や田畠であったところが一夜のうちに川になると言った例はいくらもあったことであろう。桑田・碧海のたとえはこんなところから出たものと思われる。
 数干年前、筑後川の流れが今の杷木町・池田・古賀・揚・若市附近を流れ、高山で湛えられた水は、高山の手前や若市附近で深い渕を作っていたのではなかろうか。後年栗山大膳の亀退治の伝説や干代島長者の話等の場となった高山渕はこうした流路の変化によって生じた現象であろう。
 条里制のところでのべるように現在の古川放水路よりも南に筑後川が流れていたようである。この流路変化によって、できた1000年前の土地争いの記録が残されている。さらに志波の対岸にある杷木町の土地も遠い昔、中島より南を筑後川が流れていたなごりであろう。初め中島に建られていた普門院を洪水の被害をさけるため、現在地に移したと伝えられているのもその一つと思われる。

上流:大石堰 大石堰

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「筑後川名称」