町名のおこり |
杷木の町名 |
秋葉宮より杷木と筑後川
昔、護岸工事というもののなかった時代の大川(筑後川)は、極めて自由奔放に流れまわっており、それに物がつかえると直ちに流れを変える。こうして何万年、何十万年とたつうちに今の下池田、古賀、寒水あたりから南は耳納山麓に至る間の平地のすべてが、かつては古河であったであろうことは、現在どこを掘って見てもその地下から、赤錆のついた丸い川石が出て来ることによって証明される。こうして水のよどみができて池が構成される。 永い間にその池の周辺が田に変わる、また何千年か何百年かののちには池も田もなくなって「池田」の地名だけが残ることになる。 昔、その池田の池のほとりに杷木大明神が祀られ、その杷木大明神の近くに住む人たちによって「杷木村」ができた。 江戸時代の行政区画によると、池田村の枝村に杷木村というのがあり、池田村の庄屋が杷木村をも併せ治めていたという。 杷木神杜の縁起によると、 陰陽二つの馬杷をもって、日子の峰(彦山)に天降られた天忍穂耳命が、賜の馬杷を大己貴命に授け給い、「汝、これより南の国を豊かにせよ」と仰せられた。大己貴命は勅を奉じ、早速豊後と筑前の境の山に来たり、大きな桧の枝にその馬杷をかけ、そこに鎮まり給うたのでその所を杷の来た山、(杷来山)といっていたが、その山裾の道が二つに岐れていたので、いつの頃からか杷岐と呼ぷようになった。 その後第二十七代安閑天皇の甲寅の年(西紀534)2月29日に村人達が宮造りして、杷岐を改め杷木大明神として崇め奉ったのが始めである。 馬杷とは土をかきならす農具のことであり、杷木大明神はその始め農耕の神として祀られたものである。 そのため2月29日の大祭には、杜前において農具を売り出したのが未だに続く杷木市の始めといわれている。 その後杷木大明神はますます繁栄し、年毎に行われる杷木市にはいよいよ混雑を極め、杜周辺の田圃を踏み荒して困るからと、秋月種実支配のころ願い出て、この杷木市を久喜宮に移して行っていたという。 江戸時代になると上座郡上郷のうち十九か村、すなわち鼓、赤谷、小河内、石詰、世加田、木地屋、大山、穂坂、川口、鵜木、哭坂、拝松、池田、白木、寒水、古賀、若市、古町、久喜宮の総鎮守杜となり、旱り続きには藩庁から雨乞祈願が命ぜられ、長雨続きには早り祈願の参篭を、そのほか郡代や代官奉行など旅立ちのときには、道中安全の祈願祭が行われその都度近隣の庄屋、大庄屋立会いのもとに行われた。 なお、栗山大膳が志波の領主となってからは、志波の城下を駿盛にするため杷木の市を志波に移して行うこととし、而も一年に六回も行ったということが記録されてある。 この杷木市が再び池田で行われるようになったのは、いつのことかはつきりしないが、多分、明治維新の神仏判然令によって神仏分離が行われ、神社庁ができてからのことと忍われる。 こうして杷木はその町名とたり、池田は大字名になっている。 |
![]() |
栗山大膳追慕碑(円清寺境内) |
NEXT
「筑後川」