鵜木城跡
 杷木神籠石の国道386号線より南西側の部分には、戦国時代の山城である鵜木城が存在する。秋月藩士大蔵種周により江戸時代に書かれた『古戦古城之図』の「上座郡林田邑鵜木城跡之図」という絵図には、「長尾城之出城也」とあり、城主など詳細はあまり知られていない。
 現状での鵜木城の構造は、標高70mの頂上部を中心として、南北約40m、束西約20mの主郭がある。その東側から北側にかけて、幅約10m、深さ約1mの大きな横堀が巡る一方で、西側は横堀ではなく、幅約10mの平坦地(腰曲輸)が取り付く。そして、横堀の北側には3本の畝状竪堀が認められる。また、主郭へ入る虎口は主郭の南側にあり、単純な構造の平入り虎口であるが、絵図には描かれておらず、後世のものかもしれない
 鵜木城の年代を考えると、北部九州の城館において、鵜木城に認められる横堀や畝状竪堀が発達するのは、天正期である可能性が高く(木島・中西1998、中西・岡寺2001)、歴史的文脈から考えると、鵜木城の最終年代は、天正期、それも天正9(1581)年の原鶴含戦の頃であると考えられる。
城の立地を考えても、長尾城の支城にふさわしく、豊後との国境にほど近いために非常に重要で、この地域を中心に幾度も戦乱が繰り広げられたことは想像に難くない。
上座郡林田邑鵜木山城之図
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