横綱梅ケ谷
 初代梅ケ谷藤太郎は弘化2年(1845)3月3日、志波梅ケ谷で、小江藤右ヱ門の次男として出生した。幼児より怪童として知られ、かずかずの逸話が伝えられている。十八才の年大阪に出て港由良右ヱ門の弟子となり部落名梅ケ谷をしこ名として初土俵を踏んでいる。時に文久3年(1870)春の事である。土俵成績はまことにすばらしく、7年後の明治3年(1870)東方大関
に昇進したが、感ずるところあって、仝年東大関の栄位を捨てて上京、江戸相撲の名門、玉垣額之助の門をたたいて入門、以未異常な忍耐と努力を重ね、明治12年西方大関となり仝17年第14代横綱に推挙され、仝年3月10日芝延寮館において明治天皇の天覧相撲に出場する
光栄に浴し、仝日横綱として土俵人りを行っている。翌明治18年2敗を喫するや、横綱は不敗たるべしと」言う彼白身の信念により引退して、年寄雷権太夫を襲名した。




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